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日光の歴史 〜二荒(日光)からNIKKOへ〜

日光の歴史の始まりは奈良時代にさかのぼる。

勝道上人像

勝道上人像

開祖である勝道上人勝道上人は日光山を開山した、奈良時代から平安時代初期にかけての僧。生誕地には現在仏生寺がある。弟子に尊鎮法師(多気山不動尊を創建)がいる。は、735(天平7)年に下野芳賀郡(現在の栃木県真岡市南高岡)に生まれ、7歳のある夜、明星天子が夢に現れ「仏の道を学び、日光山を開け」とのお告げに導かれ、10人の弟子と766(天平神護2)年、大谷川(現在の神橋/当時はもちろん橋はない:山菅の蛇橋伝説)を渡り、四本竜寺(現在の本宮神社・三重塔付近)を建立したのが日光山の起源だ。一行は、主に日光山中(現在の世界遺産日光の社寺エリア)で16年余の修行を経て、782(天応2)年に二荒山(男体山)山頂を極め日光(二荒山)開山を成し遂げた。

「日光」という地名の由来は、男体山の古称「二荒山」「フタラ」「ニコウ」と音読みし、「日光」という文字をあてたとされている。

ここで「日光山」について記しておく。世界遺産となった「日光の社寺」が位置する恒例山・大国山・外山周辺を「山」といい、神橋西町付近から駅前東町付近を「丘」、水田や畑を作る事が出来た地区を「野」と呼び、今も野口(野の入口)という地名が残っている。

また日光山は、比叡山(延暦寺)東叡山(寛永寺)と並ぶ天台宗本山で、輪王寺の山号でもあるのだ。

それら「丘」「野」に対し日光連山を含めた高い山々を「峰」と呼び霊峰とされ、特に「二荒山」は、住民たちの信仰対象物とされた。

男体山

男体山

そもそも、男体山をなぜ二荒山と呼んだのかは、補陀洛(ふだらく)に由来し、観音菩薩の浄土であるポータカラ(梵語)を漢字にあてたもので、補陀洛山からフタラ山(二荒山)の名が生まれたのが有力説である。ほかに日光連山の山中にはクマザサが多い事から、アイヌ語のフトラ(熊笹)がフタラとなったという説と、馬返(いろは坂下り道右手)の岩壁の洞穴から、春と秋に風神が吹き荒れるとされていたことから、二荒となったという説などがある。

時代は、江戸・明治・大正・昭和と移り過ぎたが、日光の自然・歴史・文化・伝統は、それらの時代における災害や戦火から難を逃れる事ができ、1999(平成11)年、日光東照宮・日光山輪王寺・日光二荒山神社を「日光の社寺」日光の社寺は1999(平成11)年ユネスコ世界遺産委員会で文化遺産として登録された。日光山内(にっこうさんない)、二社一寺(にしゃいちじ)とも称される。として世界遺産として登録され、2005(平成17)年、「奥日光の湿原」としてラムサール条約湿地として登録された。名実共に日本の日光から世界が認めた「NIKKO」となったのである。

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